江戸時代は外食産業が盛んだった?
九尺二間。これは一般的な庶民が暮らした長屋の広さで、幅が九尺、奥行きが二間の約十平方メートルの住まいです。今風に言うなら、1K、フロなし、トイレ共同と言うところでしょうか。腰高障子と呼ばれる戸口を抜けて土を突き固めた土間、そこから上がって4畳ほどの板間が標準の間取りです。
土間には竈(かまど)と流し、そして水瓶があるのが一般的ですが、竈のない長屋もありました。煮炊きをする竈がなくても、外食産業が盛んだったため、実はさほど生活に困りませんでした。
外食が発達した原因の一つが、もともと江戸は男性がほとんどの町だったからです。幕末ごろには男女半々ぐらいの人口比になりますが、初期は徳川家康が江戸城の建設及び、城下町の整備を命じ、その人手として駆り出されたために、男性が多かったと言われます。また、たびたびの大火で家が焼け落ちたりした結果、煮炊きの出来ない人たちのためにおかずや食事を売る店や棒手振りが出てきたことも、発達を促進した要因の一つとして考えられます。
棒手振りは天秤棒の両端に籠や箱を下げて売りに来る商売人です。野菜や魚の他、豆腐や味噌、納豆やアサリのむき身などの材料も売っていましたが、煮豆やゆで卵の加工品、そして、有名な蕎麦や饂飩、寿司やウナギのかば焼きを売る人など、多くの棒手振りが町を廻っていました。
もっと腹の足しになるものでは、茶飯(醤油ご飯)や麦飯(とろろ飯)と言ったご飯も売っていました。お腹が空いた、と思って売り声を聞いたら、即座に呼んでささっと掻き込む、と言ったところでしょうか。
土間には竈(かまど)と流し、そして水瓶があるのが一般的ですが、竈のない長屋もありました。煮炊きをする竈がなくても、外食産業が盛んだったため、実はさほど生活に困りませんでした。
外食が発達した原因の一つが、もともと江戸は男性がほとんどの町だったからです。幕末ごろには男女半々ぐらいの人口比になりますが、初期は徳川家康が江戸城の建設及び、城下町の整備を命じ、その人手として駆り出されたために、男性が多かったと言われます。また、たびたびの大火で家が焼け落ちたりした結果、煮炊きの出来ない人たちのためにおかずや食事を売る店や棒手振りが出てきたことも、発達を促進した要因の一つとして考えられます。
棒手振りは天秤棒の両端に籠や箱を下げて売りに来る商売人です。野菜や魚の他、豆腐や味噌、納豆やアサリのむき身などの材料も売っていましたが、煮豆やゆで卵の加工品、そして、有名な蕎麦や饂飩、寿司やウナギのかば焼きを売る人など、多くの棒手振りが町を廻っていました。
もっと腹の足しになるものでは、茶飯(醤油ご飯)や麦飯(とろろ飯)と言ったご飯も売っていました。お腹が空いた、と思って売り声を聞いたら、即座に呼んでささっと掻き込む、と言ったところでしょうか。
via www.photo-ac.com
一方である程度長屋で調理をする場合もありました。竈がなくても、火鉢でお湯を沸かしたり、鍋をしたり、お酒の燗をつけることができました。写真の火鉢は燗銅壺がついた長火鉢です。ここに水を入れると火鉢の熱で温められ、燗徳利でお燗がつけられる仕組みです。
あるいは七輪を使いました。
仮に鍋がなくとも、ホタテ貝の殻を使って簡単に煮たりしていたようです。
江戸の屋台の定番と言えば天麩羅!
もっと簡単に食べられると言えば、屋台です。屋台の代表格、鮨とウナギと並ぶものに天麩羅があります。
天麩羅の始まりは、ポルトガル語が語源だというものや、大坂から出てきた浪人が考案したこの製法に、戯作者山東京伝が「天麩羅」と名づけたなど、諸説ありはっきりしません。江戸ではあなご、芝エビ、こはだ、するめ、貝の柱などの魚介に粉をつけて油で揚げたもので、一串四文から六文ほどでした。揚げたものを大皿に並べて置いて客がたれをつけて食べると言う、屋台での立ち食いが最初だったようです。
天麩羅の始まりは、ポルトガル語が語源だというものや、大坂から出てきた浪人が考案したこの製法に、戯作者山東京伝が「天麩羅」と名づけたなど、諸説ありはっきりしません。江戸ではあなご、芝エビ、こはだ、するめ、貝の柱などの魚介に粉をつけて油で揚げたもので、一串四文から六文ほどでした。揚げたものを大皿に並べて置いて客がたれをつけて食べると言う、屋台での立ち食いが最初だったようです。
当時は長屋に住むような一般庶民の食べ物で、天麩羅はあっという間に人気の食べ物になり、座敷で食べさせる店が出来たと言います。武士などはそもそも立ち食いをしなかったと言われますが、彼らも人気の食べ物を食べてみたいと思っていたのではないでしょうか。時々武士だと思われる人が屋台の前にいる絵を見かけますが、一様に顔を隠していますので、誰か判らないようにしてこっそり食べていたのかも知れません。
珍しいところでは、四文屋と呼ばれる屋台があったそうです。こちらは煮魚、煮しめ、芋や田楽を煮たもの、果ては菓子まであって、何でも一つ四文、と言うものです。
屋台での立ち食いは、一つ二つさっと抓んで終わりにする、間食のような存在でした。ちゃんとしたご飯として食べる店と言うと、料理茶屋が思い浮かびますが、料理茶屋はどちらかと言うと、趣味の会を催したりなど何かの集まりに使ったりする高価な飲食店が多くなります。
珍しいところでは、四文屋と呼ばれる屋台があったそうです。こちらは煮魚、煮しめ、芋や田楽を煮たもの、果ては菓子まであって、何でも一つ四文、と言うものです。
屋台での立ち食いは、一つ二つさっと抓んで終わりにする、間食のような存在でした。ちゃんとしたご飯として食べる店と言うと、料理茶屋が思い浮かびますが、料理茶屋はどちらかと言うと、趣味の会を催したりなど何かの集まりに使ったりする高価な飲食店が多くなります。
煮売屋は江戸時代の定食屋?
もう少し廉価で食べられる店では、煮売屋、一膳飯屋などがあります。
煮売屋は明暦の大火(1657年)以降出来た店です。煮しめなどを売るほか、店の中でも食べさせました。店先に材料である魚や鶏、蛸をぶら下げ、大きなまな板を置いて調理していたのが看板代わりでした。座敷のある店もあったり、床机と呼ばれる板の腰掛けだけを置いただけの店など、江戸にはあちこちにこうした店があったようです。ここでは酒なども出したようです。
一膳飯屋は煮売屋よりも、もう少し定食屋らしい店で酒も供しましたが、ご飯と汁ものを一緒に出したり、鍋物を出したりしたようです。
煮売屋や一膳飯屋は、現代で言うなら定食屋兼、居酒屋のような場所だったのではないでしょうか。
(rauya)
煮売屋は明暦の大火(1657年)以降出来た店です。煮しめなどを売るほか、店の中でも食べさせました。店先に材料である魚や鶏、蛸をぶら下げ、大きなまな板を置いて調理していたのが看板代わりでした。座敷のある店もあったり、床机と呼ばれる板の腰掛けだけを置いただけの店など、江戸にはあちこちにこうした店があったようです。ここでは酒なども出したようです。
一膳飯屋は煮売屋よりも、もう少し定食屋らしい店で酒も供しましたが、ご飯と汁ものを一緒に出したり、鍋物を出したりしたようです。
煮売屋や一膳飯屋は、現代で言うなら定食屋兼、居酒屋のような場所だったのではないでしょうか。
(rauya)
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