江戸時代の芝居は、開場の一の太鼓が朝八つ(午前二時頃)に鳴り、朝六つ(午前六時)に開演の太鼓が鳴ったと言います。開演までに行こうとすれば、午前四時から準備を始める、と言う川柳もあながち間違いではないでしょう。開演するとまずは祝い舞である「三番叟(さんばんそう)」が始まります。この頃は流石にまだ人も多くなかったようです。その後ようよう芝居が始まり、終演が暮七つ半(午後五時)ごろ。幕間があるとは言え、丸一日芝居を見ていることになります。
座席の手配から食事の手配までこなした芝居茶屋
歌舞伎見物に行くには二通りの方法があります。
長屋に住むような人たちは普通に入口で木戸銭を払い、安い大衆席に案内されます。これらは切落(きりおとし)、向桟敷(むこうさじき)などの席です。切落は土間の最前列で、初期に舞台だったところを客席にしたもの。向桟敷は舞台正面の二階にある席で、前方の左方を「引船(ひきふね)」、それ以外の桟敷前方を「前桟敷」、奥の方を「追込(おいこみ)」と言い、一番安い追込で十文程度でした。
芝居を見物するもう一つの方法は、芝居茶屋に頼むものです。芝居茶屋は木戸札(チケット)から食事までの一切の面倒を見ました。中村座、市村座、森田座という芝居小屋それぞれの周りに何十軒と軒を並べていました。芝居茶屋で頼むと、土間の枡席か、舞台を横から見られる桟敷席になります。これらの席は現在の金額で言えば枡席が数万、桟敷になると数十万ほどと高額な席でした。そのため、芝居茶屋を使う客は、江戸留守居役などの上級武士、宿下がり(休暇)中の御殿女中や豪商などがもっぱらでした。
芝居茶屋を頼む客、特に桟敷の客は直接芝居小屋に行かずに、まずは茶屋へ上がり、軽い朝食を食べてから小屋へ行きます。席に着くときには緋毛氈(ひもうせん)が掛けられ、最初に煙草盆、お茶と菓子、番付を運び、さらに口取と酒が運ばれてきます。彼らは幕間にちょこちょこ芝居茶屋へ戻って飲んだり食べたりしてくつろいだそうです。昼には幕の内弁当、午後には鮨と水菓子を出したと言います。終演後に茶屋に戻ると夜食を食べるか、酒宴を催してひいきの役者や芸者を呼んだと言います。『守貞謾稿』によれば、江戸の芝居茶屋は芸者を抱えず、芝居茶屋の近所に置屋があり、そこから呼んだそうです。
枡席の客は「かべす」を席まで運ばせました。「かべす」は「菓子」、「弁当」、「鮨」の頭文字です。
長屋に住むような人たちは普通に入口で木戸銭を払い、安い大衆席に案内されます。これらは切落(きりおとし)、向桟敷(むこうさじき)などの席です。切落は土間の最前列で、初期に舞台だったところを客席にしたもの。向桟敷は舞台正面の二階にある席で、前方の左方を「引船(ひきふね)」、それ以外の桟敷前方を「前桟敷」、奥の方を「追込(おいこみ)」と言い、一番安い追込で十文程度でした。
芝居を見物するもう一つの方法は、芝居茶屋に頼むものです。芝居茶屋は木戸札(チケット)から食事までの一切の面倒を見ました。中村座、市村座、森田座という芝居小屋それぞれの周りに何十軒と軒を並べていました。芝居茶屋で頼むと、土間の枡席か、舞台を横から見られる桟敷席になります。これらの席は現在の金額で言えば枡席が数万、桟敷になると数十万ほどと高額な席でした。そのため、芝居茶屋を使う客は、江戸留守居役などの上級武士、宿下がり(休暇)中の御殿女中や豪商などがもっぱらでした。
芝居茶屋を頼む客、特に桟敷の客は直接芝居小屋に行かずに、まずは茶屋へ上がり、軽い朝食を食べてから小屋へ行きます。席に着くときには緋毛氈(ひもうせん)が掛けられ、最初に煙草盆、お茶と菓子、番付を運び、さらに口取と酒が運ばれてきます。彼らは幕間にちょこちょこ芝居茶屋へ戻って飲んだり食べたりしてくつろいだそうです。昼には幕の内弁当、午後には鮨と水菓子を出したと言います。終演後に茶屋に戻ると夜食を食べるか、酒宴を催してひいきの役者や芸者を呼んだと言います。『守貞謾稿』によれば、江戸の芝居茶屋は芸者を抱えず、芝居茶屋の近所に置屋があり、そこから呼んだそうです。
枡席の客は「かべす」を席まで運ばせました。「かべす」は「菓子」、「弁当」、「鮨」の頭文字です。
芝居茶屋の料理
芝居茶屋が桟敷、枡席の客に用意した弁当が『幕の内弁当』です。
大きな茶屋では自前で作っていたようですが、小さな茶屋は仕出し屋に頼んでいたそうです。中身としては握り飯を少し焼いたものが十個、卵焼き、かまぼこ、こんにゃく、焼豆腐、干瓢など。大きなところは重箱に入れてこれを人数分席まで運んだそうです。仕出し屋に頼んだものは笹折に似たような中身を詰めて一人分銭百文ほどの値段もしました。それを茶屋によっては重箱に詰め直して出したところもあったと言います。
また、客の注文によっては弁当ではなく簡単に茶漬だったり、あるいは豪勢に本膳料理を出したところもあったようです。『守貞謾稿』の頃には芝居茶屋の夜食は非常に高価だったためにこれを断って帰りに別の店で食べたりする客が増えたと言います。また、昔は席に着いた客には昼飯まで、口取、吸物、次に刺身や肴、煮物などを出したそうですが、次第に口取、吸物を断る客が増え、これを止めました。
更に、芝居茶屋が出していた菓子も「編笠餅(あみがさもち)」と呼ばれるもので、新粉に砂糖と小豆餡を入れて二つ折りにした形が編み笠に似ていることからついた名前です。初期はこればかりだったそうですが、次第に上客には出さないようになり、『守貞謾稿』が書かれた嘉永頃は「美製菓子を用ふ」とあるので、菓子店の物を使ったようです。
大きな茶屋では自前で作っていたようですが、小さな茶屋は仕出し屋に頼んでいたそうです。中身としては握り飯を少し焼いたものが十個、卵焼き、かまぼこ、こんにゃく、焼豆腐、干瓢など。大きなところは重箱に入れてこれを人数分席まで運んだそうです。仕出し屋に頼んだものは笹折に似たような中身を詰めて一人分銭百文ほどの値段もしました。それを茶屋によっては重箱に詰め直して出したところもあったと言います。
また、客の注文によっては弁当ではなく簡単に茶漬だったり、あるいは豪勢に本膳料理を出したところもあったようです。『守貞謾稿』の頃には芝居茶屋の夜食は非常に高価だったためにこれを断って帰りに別の店で食べたりする客が増えたと言います。また、昔は席に着いた客には昼飯まで、口取、吸物、次に刺身や肴、煮物などを出したそうですが、次第に口取、吸物を断る客が増え、これを止めました。
更に、芝居茶屋が出していた菓子も「編笠餅(あみがさもち)」と呼ばれるもので、新粉に砂糖と小豆餡を入れて二つ折りにした形が編み笠に似ていることからついた名前です。初期はこればかりだったそうですが、次第に上客には出さないようになり、『守貞謾稿』が書かれた嘉永頃は「美製菓子を用ふ」とあるので、菓子店の物を使ったようです。
前出の『守貞謾稿』によれば、江戸では弁当を持って観劇に来る客はいなかったとあります。これは客席のランクと芝居茶屋が結びついているためでもあったのではないかと思います。また、長屋に住むような人たちは丸一日いる人も居たかも知れませんが、むしろ見たい幕だけを見て、さっと帰ったのではないかと思われます。お使いに出された芝居好きの小僧さんがほんの一幕で帰るつもりが、ずるずると二幕、三幕と見てしまい遅く帰って叱られる、なんて落語のようなこともあったことでしょう。
歌舞伎を見ながら飲食をしている観客の様子は歌川国貞による「踊形容江戸絵栄(おどりけいようえどえのさかえ)」に良く描写されています。「文化デジタルライブラリー(http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/)」から検索することができます。
(rauya)
thumbnail pictures by KPG Payless2/Shutterstock.com
歌舞伎を見ながら飲食をしている観客の様子は歌川国貞による「踊形容江戸絵栄(おどりけいようえどえのさかえ)」に良く描写されています。「文化デジタルライブラリー(http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/)」から検索することができます。
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