江戸時代、握り鮨はおやつ代わりでした。そんな鮨が、「魚と塩とご飯を一緒に漬けたもの」から「作ってすぐに食べられる握り鮨」になるまでの歴史と変遷をご紹介します。
鮨の原点は「馴れ鮓(なれずし)」
寿司の原点は「馴れ鮓(なれずし)」です。これは塩をした魚を飯と共に漬け込んで、自然発酵させたものです。この頃は蓼(タデ)と一緒に食べていたようです。食べ方は不明ですが、おそらくは蓼の葉を擦ったのではないでしょうか。
なれずしは半年から1、2年も漬けておくものですが、だんだんと漬けておく期間が短くなる鮨が登場します。
なれずしは半年から1、2年も漬けておくものですが、だんだんと漬けておく期間が短くなる鮨が登場します。
「古鮨(ふるずし)」「早鮨(はやずし)」の登場
17世紀の延宝年間には古鮨(ふるずし)と呼ばれる鮨が出来ました。これは魚と飯を混ぜて四、五日漬けこんでおくものです。
その後十八世紀の宝暦頃に、早鮨(はやずし)が誕生し、一気に広まりました。早鮨といっても今の握り鮨ではなく、箱に酢飯と魚や卵焼きなどを乗せて一晩押した、筥鮓(はこずし)と呼ばれるものでした。この早鮨も一日置くものから、押してすぐに切り分けて売るものへと変化しました。
筥鮓は一箱単位でも売りましたが、十二個に切り分けて一つ四文で売ったそうです。具にはご飯の間に醤油で煮た椎茸を敷き、さらに飯を乗せて、鯛の刺身、薄く焼いた玉子焼き、鮑の薄切りが一番上に載っていたそうです。この鮨を柿鮓(こけらずし)と呼んでいました。筥鮓は他にも、鳥貝鮓という鳥貝だけを乗せたものもありました。
その後十八世紀の宝暦頃に、早鮨(はやずし)が誕生し、一気に広まりました。早鮨といっても今の握り鮨ではなく、箱に酢飯と魚や卵焼きなどを乗せて一晩押した、筥鮓(はこずし)と呼ばれるものでした。この早鮨も一日置くものから、押してすぐに切り分けて売るものへと変化しました。
筥鮓は一箱単位でも売りましたが、十二個に切り分けて一つ四文で売ったそうです。具にはご飯の間に醤油で煮た椎茸を敷き、さらに飯を乗せて、鯛の刺身、薄く焼いた玉子焼き、鮑の薄切りが一番上に載っていたそうです。この鮨を柿鮓(こけらずし)と呼んでいました。筥鮓は他にも、鳥貝鮓という鳥貝だけを乗せたものもありました。
「鯖鮓(さばずし)」「雀鮓(すずめずし)」
鯖鮓や雀鮓と言う鮨もありました。これは腹開き、背開きにした魚の腹に飯を詰め、竹の皮で包んで麻縄で巻き、桶に詰められたものです。
19世紀初頭に「握り鮨」が登場
握り飯の上に刺身を乗せた握り鮨は、文化年間(1818~1829)頃に本所両国の花屋与兵衛(はなやよへえ)が考案したそうで、目の前で鮨を握りそれをすぐに食べられるのが受けて一気に広まり、京坂でも売られるようになりました。
ネタは卵焼き、海老、海老そぼろ、白魚、マグロの刺し身、コハダ、アナゴの甘煮などでした。刺し身とコハダの鮨には山葵を入れたそうです。鮨に用いた魚としては、鯛、鱸(すずき)、マナガツオ、鯖、アジ、かつお、さわら、マグロ、きす、鮭、鯉などもあったようです。
ネタは卵焼き、海老、海老そぼろ、白魚、マグロの刺し身、コハダ、アナゴの甘煮などでした。刺し身とコハダの鮨には山葵を入れたそうです。鮨に用いた魚としては、鯛、鱸(すずき)、マナガツオ、鯖、アジ、かつお、さわら、マグロ、きす、鮭、鯉などもあったようです。
干瓢を巻いた海苔巻や卵焼きで巻いた巻鮨なども握り鮨と一緒に売られました。鮨は大体8文程度で、玉子で巻いた巻鮨は16文したと『守貞謾稿』にあります。
店の形態としては、屋台や担ぎ売りなどの廉価な店から、店の中で食べさせる高級店まで存在したようです。
店の形態としては、屋台や担ぎ売りなどの廉価な店から、店の中で食べさせる高級店まで存在したようです。
鮨の屋台、担ぎ売りについて
via www.ashinari.com
鮨が屋台(立ち食い)で食べられるようになったのは、1700年末の天明の飢饉の際に、往来の屋台で他の食べ物と一緒に売られたのが始まりだそうです。
鮨を詰めた箱を重ねて肩に担いだ鮨売は、「すしやぁー、こはだのすしー」の呼び声で売ってまわりました。大きな問屋が大量に作ったものを、売り子に渡して町のあちこちを廻らせたようです。
鮨を詰めた箱を重ねて肩に担いだ鮨売は、「すしやぁー、こはだのすしー」の呼び声で売ってまわりました。大きな問屋が大量に作ったものを、売り子に渡して町のあちこちを廻らせたようです。