ポルトガルの砂糖菓子から転じた金平糖
金平糖はポルトガルから伝わってきた南蛮菓子です。ポルトガル語で砂糖菓子を意味する「コンフェイト」が転じたものと言われています。
コンフェイトは日本と同じように角のついたものも一部地域で作られていたようですが、現在ではドラジェと呼ばれる、糖衣で覆ったお菓子であったようです。
日本に伝わったのはカステラなどと同じ16世紀ごろです。一説には永禄十二年(1569年)に宣教師ルイス・フロイスが織田信長に献上したのが始めだそうです。
ポルトガルに今でも残っている金平糖の原型となるお菓子は、日本のほど角が目立たないもののようです。日本の金平糖がここまで透明で角が多くあるのは、日本に伝わって来て以来の菓子職人の創意工夫によるもののようです。
井原西鶴の『日本永代蔵』(貞享5年、1688年)では胡麻を砂糖で煎じ、何日も干した後煎り鍋で火を入れると、熱で砂糖が溶けて角のある金平糖が出来る、と言う製法に辿り着くまでに二年も掛けたと言う記述があります。
コンフェイトは日本と同じように角のついたものも一部地域で作られていたようですが、現在ではドラジェと呼ばれる、糖衣で覆ったお菓子であったようです。
日本に伝わったのはカステラなどと同じ16世紀ごろです。一説には永禄十二年(1569年)に宣教師ルイス・フロイスが織田信長に献上したのが始めだそうです。
ポルトガルに今でも残っている金平糖の原型となるお菓子は、日本のほど角が目立たないもののようです。日本の金平糖がここまで透明で角が多くあるのは、日本に伝わって来て以来の菓子職人の創意工夫によるもののようです。
井原西鶴の『日本永代蔵』(貞享5年、1688年)では胡麻を砂糖で煎じ、何日も干した後煎り鍋で火を入れると、熱で砂糖が溶けて角のある金平糖が出来る、と言う製法に辿り着くまでに二年も掛けたと言う記述があります。
角を作るのに苦労した金平糖
via www.flickr.com
『守貞謾稿』(嘉永六年、1853年)では砂糖に小麦や葛を交ぜて練り、芥子の実を芯として銅鍋で少しずつ掛けまわして大きくしていくと言う記述があります。大体1人で1日10斤(約6キロ)を作っていたそうです。また大阪でのみ作られていましたが、近年は江戸でも1、2店金平糖を売る店が出来たとあり、難しい製法だったため高価な菓子だったのではないかと考えられます。
『古今名物御前菓子秘伝抄』(享保三年、1718年)では、氷砂糖、白砂糖を煮詰めて、銅鍋に同じく芥子の実を入れ、少しずつ砂糖を掛けて団子にならないように茶筌でかき回して作ると書かれています。
また、その頃でも色とりどりの金平糖が作られており、青がつゆくさの汁、黄色をくちなし、赤を紅花からとった赤、黒を灰墨で色をつけたとあります。
『倭漢三才図会』(文政7年、1824年)にも金平糖の記述があり、これは胡麻を芯としたものです。胡麻に砂糖蜜を少しずつ纏わせながら鍋のなかで混ぜることにより、いぼが出来ると書かれています。また長崎の職人が一番で、京都の職人の腕はまだそれよりも劣る、との記載があります。
今ではお酒や飲み物、果物の味や色もカラフルになっていますが、金平糖の角(『守貞謾稿』によれば、「いら」というそうです)を作るのがそんなに大変だったとは初めて知りました。
(rauya)
thumbnail pictures by JUN KAWAGUCHI /Shutterstock.com
『古今名物御前菓子秘伝抄』(享保三年、1718年)では、氷砂糖、白砂糖を煮詰めて、銅鍋に同じく芥子の実を入れ、少しずつ砂糖を掛けて団子にならないように茶筌でかき回して作ると書かれています。
また、その頃でも色とりどりの金平糖が作られており、青がつゆくさの汁、黄色をくちなし、赤を紅花からとった赤、黒を灰墨で色をつけたとあります。
『倭漢三才図会』(文政7年、1824年)にも金平糖の記述があり、これは胡麻を芯としたものです。胡麻に砂糖蜜を少しずつ纏わせながら鍋のなかで混ぜることにより、いぼが出来ると書かれています。また長崎の職人が一番で、京都の職人の腕はまだそれよりも劣る、との記載があります。
今ではお酒や飲み物、果物の味や色もカラフルになっていますが、金平糖の角(『守貞謾稿』によれば、「いら」というそうです)を作るのがそんなに大変だったとは初めて知りました。
(rauya)
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